いるべの歴史 
林遠里(はやし えんり)@

−地域との出会い・ふれ合いを通してー

入部の地、再発見 
       「林 遠里(はやし えんり)」



ここに、明治10年に出版された一冊の本があります。その名は『勧農新書(かんのうしんしょ)』。明治10年に出版されたこの勧農新書は、当時の日本の農業指導書として、明治30年代にかけて、日本全国で広く読まれることになります。農業家たちにとっては、バイブルのような意味をもつことになり、ベストセラーになったのです。

ここ入部の地から、全国に名をしられることになった、明治の農業指導者、林遠里(はやしえんり)についてお話します。

林遠里は、天保2年、1831年に早良郡鳥飼村、茶屋の内に生まれます。父、直内(ちょくない)は、黒田藩の砲術指南で、170石取りという中級の武士の家庭でありました。林遠里はその次男としてうまれ、武術、特に銃術に秀でていたといわれています。

遠里は、明治3年2月に、早良郡重留村に移り住みます。このとき、40歳。遠里が重留村を選んだのは、周囲に研究熱心な農業家が多かったこと。そして、かつて黒田長溥公の狩猟のお供をして、このあたりをしばしば訪ねたことがあり、そのころから大変気に入った場所であったことによるといわれています。それまでは那珂郡、安徳村(今の那珂川町)で火薬の製造に従事していました。

遠里が、農業改良に打ち込むことを決意したのは、明治2,3年ごろで、すでに40歳近かったと言われています。明治はじめの日本の基本産業は、なんと言っても農業であったにもかかわらず、そのころの農業は、商・工業に比べて江戸時代そのままの旧態依然としたものでありました。そのため彼は、農業に新風を吹き込むことこそ、国力を培うための急務であると考えたのです。

彼は、本を読んだり、学理から入るよりも、実際に作物を育ててきた古老の体験から、何かを得ることを大事にしました。ここ、重留の地でも、実際に老農を訪ねてその経験を聞くことから始め、よいと思ったことは直ちに自ら実験してみたのでありました。

その中から、『寒水浸し法』と『土囲い法』を考案することになります。

『寒水浸し法』とは、冬の間、籾を冷たい水の中に浸しておくことによって、種子を強くし、それを春にまいて生育させるという方法です。自然の種子は、地上に落ちて、寒い冬を凍りついた大地の中ですごします。これが当たり前の状態で決して種子を家の中になど貯蔵などせず、寒いときにはうんと寒いことを、 暖かいときには暖かいことを種子に知らしめなければならないということが、彼の主張でありました。すなわち、種子を自然のままにおくことの必要を力説したのです。

彼はこの発見をといて回りますが、誰にも信用されませんでした。そこで彼は、自ら実験して見せ、よい結果を出し、農民たちを納得させていきます。

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