勝馬の歴史

 勝馬の起こりは、綿津見三神が勝馬浦海岸に鎮座されてより古事記に勝間、日本書紀にカタマ(籠)と書かれており、籠→加津間→勝間→勝馬と変化してきているし、大和時代(仲哀天皇の時)神功皇后が三韓征伐の時この地で、勝利を祝い将兵に褒美を与えられた際乗っておられた馬も喜んで高くいなないたということから、かちうま(勝馬)と呼ばれるようになったとも伝えられている。これに因んで、舞納ヶ浜、下馬ヶ浜の地名が残っている。
 また、昭和22年4月縄文時代後期のものと推定される細型銅剣の鋳型が出土されたり、古墳時代前期のものと見られる箱式石棺が発見されたりしている。勝馬聚落には早くから優れた部族が住んでいたことが伺える。さらに、万葉集には海女は大浦田沼(今の大浦付近)に住んでいたとあり、航海や漁を生業としていたと思われる。『荒雄らが行きにし日より志賀の海女の大浦沼はさぶしくもあるか』をはじめ、万葉集には志賀島に関係した歌が23首あるがその内勝馬には3首の記念歌碑が建っている。

勝馬校区の特色

 勝馬は、福岡県北西部、玄界灘から博多湾を分ける海の中道の先端にある志賀島(周囲約11q、面積約5ku )の北側に位置している。糟屋郡志賀町であったが、1971年福岡市に編入された。大字勝馬は、同島のほぼ3分の2を占めるものの、勝馬の人々の住居は島の北端の固まり斜面に集落を形成している。校区のほとんどが150m以下の丘陵地帯であって、耕作に適した田畑は、北西方面に広がるわずかな傾斜地しかない。勝馬の産業としては、対馬海流による温暖な気候を利用して、「イチゴ」をはじめ、「ビワ」「ミカン」等の園芸作物の栽培が盛んである。島の先端にあるのに漁業が全くないのは意外であろうが、玄界灘の潮の流れが激しいこと、地形的に入江がなく瀬が近いことなど漁業には適していないことがその理由である。また、校区内には3軒の料亭と国民休暇村の4つの宿泊施設や海の家がある。