歴史No.3 
小呂島の捕鯨史
小呂島の島史には、捕鯨に関して
@延宝8年(1680年)長崎県大村深沢義大夫・小呂島で
鯨取りを始める。しかし、台風で波戸・船入場がこわれたこともあり、
6年間で中止。
A享保10年(1725年)博多熊本屋助次郎、岐志浦正兵衛、藩命
により捕鯨するも1年で中止。
B明和9年(1772年)深沢義平次・捕鯨を始めるが長くは続かず。
C寛政10年(1798年)小呂島沖で捕鯨が盛んとなる。

と、四項目を記録するのみである。
 わが国における捕鯨漁は、中世の頃、紀州にその端を発すると
いわれるが、江戸期には西海もまた一大中心地となり、平戸・生月
・小呂・大島・長門・見島など多くの基地が設けられることになる。
紀州の突取法に対して、西海では網代(あじろ)に鯨を追い込む
網取法を考案したことにより、漁獲量も飛躍的に伸び盛況を極めた。
 ご存じのように、解体された鯨は捨てるところがないといわれるようほど
その体の各部が利用される。肉と内臓は食用に、その他は鯨油や工芸品と
なるなど、貴重な品であった。当時の記録によると20メートルを越すセミ
クジラが一頭500両(今の二千万位か)で取引されている。そうなれば、
当然のように鯨組から大きな運上金が各藩にあがってくる。唐津藩・五島
藩・松浦藩等への莫大な運上金の話を聞き込んだ福岡藩が、他藩に遅れ
てはならじと鯨組を組織するよう命じたことは想像に難くない。かと言って、
藩内には、捕鯨基地となるべき良港もなければ、組を作る素地もなかっ
た。そこで白羽の矢が立ったのが、当時京阪までも名を馳せたという大村
の鯨組の組主深沢義大夫であった。当時は福岡藩の近くに壱岐の布屋
組・小川島の中尾組・平戸の土肥組・唐津の益富組などがあったが、あえ
て大村組を選んだのは、その組織力もさることながら、当時長崎警固に
あたっていた福岡藩が、その通行途路に何らかの機会を得て大村組と
接触を持ったことが考えられる。尚、当然のことではあるが、その折り
にはあらかじめ藩主(大村氏)の承諾が必要であったろう。戦国末期の
武将として活躍した黒田氏、大村氏の祖以来という両家の関係が、
あるいは一連の交渉をスムーズにさせたのかもしれない。 
福岡藩に招聘(へい)された深沢組が、捕鯨の根拠地に最適の地として
選んだのが、玄界灘のまっただ中に浮かぶ小呂島であった。周囲の海
に鯨も多く、納屋場(なやば)を設けるにも、博多湾では遠すぎたからで
あろう。第1期は延宝8年に起こし、6年間続いたというのだからまずまず
の成功といってよい。その前年の延宝7年、筑前では凶作大飢饉で餓死
者多数といわれるから、藩としても多いに助かったに違いない。義大夫は
また、藩の御用金を立て替えた功により、中橋姓と知行150石を福岡の
地に賜った記録が残っている。
しかし、その後、各藩競争による乱獲が続いたためか、次第に小呂島で
の捕鯨は下火になっていく。再び島で捕鯨が活況を呈するのは、それから
約100年後の寛政期を待たなければならない。この頃(寛政11年)、
島の山頂にある嶽宮神社に紅指伊右衛門・嶋田兵作の両名により寄進
された玄武岩の見事な手水(ちょうず)石が残るが、あるいはこれも鯨組
と関係があるのかもしれない。しかし、各藩による玄界灘での乱獲が過
ぎたのか、島の捕鯨量も減り、再び衰退期がおとずれ、やがて幕末には
ほとんど行われなくなる。
 陽光射す段々畑に立ち、かつての納屋跡は一体どのあたりになるの
だろう(ナヤバという地名が島の北東部のゆるやかな入り江に今も残っ
ているが、あるいはここが鯨組の基地か?)と想いをめぐらしながら眼下
を見降ろすと、今はただ玄界灘捕鯨に命がけで挑んだつわもの漁師達の
夢が、遠く近く、そしてまた淡く、南からの風に乗って吹き過ぎてゆくのみ
である。