五軒家物語 
「お前たち、小呂島へ渡ってくれぬか。」
「頼む。こうなっては、もうお前達しかいないのだ。
頼む。」
「・・・・。」
「頼む。」
「・・・・。」
「頼む。」
 西浦弁指(べんさし)浦庄屋の深々と頭を下げた
姿が、それぞれの当主の前にあった。藩命と小呂
島移住を拒否続ける西浦の浦人達との板ばさみと
なり、苦悩の日々を過ごしてきた弁指達にとって、
残る頼みの綱は、自分の親族しかなった。本家筋
の、それも浦庄屋から頭を下げられれば、五人の
当主は、もう拒むことはできなかった。
「分かりました。島へ渡りましょう。!」
「よし、行こう。」
正保2年(1645年)5月5日、5家族11人は、このよ
うにして、玄界灘に浮かぶ無人の島小呂島へ渡って
行った。小呂島五軒家のはじまりである。
 島原の乱(1637年)以後、藩命もあり、異国船警備
の目的で、藩境の小呂島に烽火(のろし)台と遠見番所
を設け、合わせて定番を置くこととした。しかし定番だけ
では、日々の生活もままならない。また時には急用で
船を福岡城下へ走らせなければならないこともある。
そのような時に、船を自由にあやつることができた浦人
達の存在は、なくてはならぬものであった。また朝鮮通
信使の海上ルート近くに位置する小呂島は、幕府にとっ
ても藩にとっても一躍重要な地点となっていったので
ある。
家老黒田三左衛門に呼ばれた弁指達も、五軒家のそ
れぞれの当主が引き受けてくれたことに安堵の胸をな
で下ろした。黒田三左衛門が5人の当主を厚くもてなし
た上に渡島以後は、特別の入漁権と免税の特権を与え
たのは言うまでもない。
  このような優遇措置を受けた五軒家のスタートではあっ
たが、望郷の念と額に汗しての開拓は、現在の我々に
は想像もつかない。つらく厳しい日々であった。しかし、
そこには、瞬時も怠ることのない五軒家の努力と、近海
の好漁場という条件にも恵まれ、やがて島での生活が
落ち着くにつれ、故郷の西浦から親類縁者などを幾人
かずつ呼び寄せて、一島一村といってよいほどの繁栄
をとげていくのである。
 今、その日から361年の歳月が流れた。そして本校
には、五軒家の子孫である20名の子ども達がその瞳を、
玄界の海に負けず輝かせて通ってきている。この素直
で心優しい児童生徒達に、先人の苦労とパイオニア精
神を忘れてはならぬという願いを込めて一つの詩を贈
りたい。
五軒家のことが書かれた古文書      
『支子(くちなし)文庫』覚書         
 作者年代不明(江戸中期ごろと思われる)
 九大図書館蔵
      
      小呂の子ども達よ

 小呂の子ども達よ
 その昔
 君たちの先達が
 雄飛して
 この玄界灘の荒波を
 十挺艪の船で
 渡ってきた
 勇気を
 そして苦難の日々を
 決して忘れまい
 
 小呂の子ども達よ
 今
 眼前に広がる
 父が拓き
 母が守った
 この碧深く温かい
 玄界の海と
 我が島を
 いつまでもいつまでも
 語り伝えよう