一本の櫓は語る『五軒家 小呂島開拓物語・事始』
 この小篇を小呂小中学校の児童生徒の皆さんへ贈ります
 私の勤めております小呂小中学校の一階廊下には、天井から一本の櫓がつり下げられております。今では色もくすみ古びた櫓です。長さは、三尋(みひろ=五・四メートル)位はあるのですが、天井近く横一文字につり下がっているので、小中学生にはあまり目に入らないようです。かつてこの櫓は、島の古老から学校に寄贈されたものですが、展示する場所もない小さな学校ですから、校舎裏の倉庫に放りこまれたままでした。私は、その櫓が暗闇の部屋に閉ざされたままでいるのが、何となく寂しそうに見えたので、学校の創立百周年を期に、頑丈なロープで今の場所に移したのでした。
 あれから十年が経ちました。今、久しぶりにこの古い一本の櫓に手を伸ばし、そっと触れてみますと、何やら私にいや小呂島の小中学生のみなさんに語りかけているような気がいたしました。今からそのことを書き留めてみます。
 私は櫓(ろ)と呼ばれます。
 船の櫓で艪(ろ)とも書きます。
 船を進めるための大事な道具です。和船(日本の船)の華やかだった時代の道具で、この私一本で、今で言えば、スクリューの役目も舵の役目もいたします。かつて小呂島いや日本中の漁師さんは、私を使って船を走らせたものです。私の一生の大半は、海水につかったままですので、水に強い樫(かし)の木で作られます。樫の木は、とても堅く、水中でも腐れにくいことを、大昔から海に生きる人々は知っていたのです。めっぽう堅いだけに漁師さん達は、私を作るのにとても難儀されました。おっと前置きが長くなりました。
 さあ、これからが、私が今日みなさんへ、本当に話したいことなんです。
 私がこの地へやってきたのは、ずっとずっと昔のことになります。それは江戸時代の始め頃、正保(しょうほ)二年のことです。西洋暦で言えば一六四五年になります。私は元々糸島半島の突端の村、西浦(にしのうら)の山中に生えていた樫の木です。そこで切り出され漁師さんに持ちやすく漕ぎやすく削られて生まれました。それが今この地にやってきているのには、わけがあります。
 それまでは、みなさんの住んでいるこの小呂島は無人の島だったのです。しかし時折飲料水を求めて異国船がこの島にやってきては、乗組員の数名が島にあがってくるようなことがありました。島原の乱から数年も経っていない頃でしたので、福岡のお殿様は、そのことを最も心配しました。異国船を勝手に領内に入れたことが幕府に知れたら、きついおとがめがあるからです。お殿様は、この小呂島に異国船が入ってこないようにする手立てはないものかと思案しました。
 その頃お殿様の一番の相談相手は家老の黒田三佐衛門という方でした。相談を受けた三佐衛門様は、いろいろと考えぬいた結果、小呂島へ侍の定番(じょうばん=島の見張り役)を置くことにしたのです。そしてその定番と一緒に漁業のできる人達を移住させるという結論を出したのです。定番だけでは島の生活はどうしても難しいからです。そう決めると事は急を用します。こうしている間にも異国船が再び小呂島へやってくるかもしれません。この考えを触れ状(命令書)にして、福岡藩の津々浦々の弁指頭(べんさしがしら=浦庄屋)へ急いで差し出しました。
 しかし結果は、予想したとおりでした。遠い遠い小呂島への移住を申し出る者は、一人もありません。三佐衛門様は途方にくれました。
 こうなっては仕方がありません。次に考えたのは、直接交渉でした。三佐衛門様は、家来の奉行に直談判をさせようと西浦まで出向かせたのでした。西浦の漁師さんは、玄界灘の荒波にも負けぬ舟の操り方を知っております。しかも小呂島に最も近い浦です。風に任せ、波に任せ、凪続きの時はかなりの沖まで漁に出ることを藩のみんなが知っておりました。この地から移住者を選びたいと考えたのは三佐衛門様にとっては自然の成り行きだったのでしょう。
 時の浦奉行は、片山六郎左衛門様と惣原孫右衛門様でした。三左衛門様は二人をすぐさま西浦の弁指頭宅へ出向かせました。二人は弁指頭を前にして前回の触れ状の結果と、今回出向いたいきさつを手短に話した後、
「頼んだぞ。」
「頼んだぞ。」
と言い置いていきました。
 弁指頭は困り果てました。浦人(海に糧を求めて生活している人々)達の気持ちはよく分かっています。当時は海上十三里といわれた絶海の孤島です。その小呂島に勇を決して渡ろうとする者はまずおりません。凪の日はともかく玄界灘の大シケは、当時から日本中に知れわたる怖い海です。これまでに難破した舟も数知れません。ですから、いくら腕のよい漁師さんでも、命がけの今回の航海を恐れるのは当然のことでした。ましてや今回の命(めい)は移住です。一度渡れば今度はいつ帰れるか分からないのです。藩の命令と浦人の板ばさみで弁指頭は、困り果てました。もちろん老体の自分が行ってもどうにもならない事はよく分かっていました。困り果てた弁指頭は毎日元気なくうなだれたままでした。うなだれているその姿を見ると日頃からみんなの人望厚い頭(かしら)に、浦の人々はみんな申し訳ない気持ちでいっぱいでした。しかし自分の家族のことを考えれば、こればかりは受け入れることができなかったのでした。
 とはいっても、藩の命令は絶対です。最後には断れないことは誰もが分かっております。
 悩みぬいた末、弁指頭は、この方法以外にはないと考えました。それは、自分(弁指頭)の親族(親せき筋)に小呂島移住をお願いするという方法です。親族以外の家々にはとても頼めなかったのです。
 やがて頭は親族の中から、比較的家族数に恵まれている五つの家を選びました。家族の内何名かは残しておかないと、途中で遭難でもしたら、その家の家系が途絶えるからです。選ばれた五軒家の当主は、権右衛門(ごんえもん)孫右衛門(まごえもん)吉左衛門(きちざえもん)与三右衛門(よさえもん)六郎右衛門(ろくろうえもん)といいました。頭は、この五人にお願いをし、福岡城下の浦奉行片山様宅へ同道してもらいました。五軒家の当主達は悩みながらもついてきました。

 片山様の屋敷にはご家老様も惣原様もおいででした。
 型どおりのあいさつがあり、三人からは五軒家の当主達へ再度のお願いがありました。しばらく沈黙の時が流れました。

「頼む、こうなっては、もうお前達しかいないのだ、頼む。」
「・・・・・・。」
「頼む!」
「・・・・・・。」
「頼む!!」

 また、しばらくの間がありました。ご家老様もお奉行様の二人もとうとう頭を下げました。その末席には、何度も深々と頭を下げ、涙を落としている弁指頭の姿がありました。それを見ていた五人のまとめ役である権右衛門さんは、あとの四人に目配せをした後、意を決して、
「分かりました。そこまでおっしゃるのでしたら・・・・参りましょう・・・・・渡りましょう、小呂島へ。」
とご家老様や二人のお奉行様の目を見てきっぱりと返事をしました。ほかの四人も
「お引き受けいたします。」
と頭を下げながら重々しく丁重に声をそろえて答えました。それを聞いた弁指頭は、かわるがわる五人の手を握っては、深々と頭を下げました。ご家老様もお奉行様もホッと胸をなでおろしました。
 正保二年四月二十日の事でした。

 五軒のそれぞれの家からは次男坊も連れて行くことになりました。権右衛門さんの家からは三男の三吉も渡ることになりました。藩から用意されるという御用船の大きさにあわせ、また移住直後の必要な人手を考え、十一人の渡島者が決まりました。
 数日後、伊崎浦から西浦へ御用船が回されてきました。ふだん見慣れた伝馬船よりもはるかに長尺で十梃櫓用の舟です。右に五人、左に五人同時に十人で櫓を漕ぐことができます。これならば速さもかなりのものだとみんなは思いました。そして、少しは安心もしました。櫓は十挺とも手慣れた自前の物を使うことにしました。
 それからまた数日の準備期間がありました。十一人は、当座必要な家財道具や新しく神社(やしろ)造った時に植える蘇鉄(そてつ)の一株も忘れずに船に積み込みました。藩からも米十俵と大豆・麦・味噌・醤油等当分の間の食糧、それに家建てのための柱材、板材、麦わらを積めるだけ積んでくれました。出発は五月五日の仏暁(ふつぎょう=夜明け前)と、お触れが回りました。旧暦五月(今でいう六月)といえば日も長く凪の日が多いのです。それに五日は端午(たんご)の節句でもあり縁起も良いということで決められました。

 五月五日はすぐにやってきました。その朝は浦も沖の海上も、薄い靄(もや)こそかかっていましたが、凪いでいました。
 やがてどこから聞きつけたのか、西浦だけでなく近郷近在の村や浦から、別れを惜しんでたくさんの人々が、五軒家の船出を見送りに西浦の浜に集まりました。村の人々は、その勇気を讃えました。浦の人々は、自分達の代表で渡ってくれる五軒家の十一人に感謝の気持ちでいっぱいでした。
「心配するな、無事に着いてみせるけん。着いたらすぐに家建てばい。落ち着いたら、迎えに来るけん待っとけ。晴れの門出に涙やら出すな!」
そう言って権右衛門さんは、今回の渡島に加えることができなかった自分の家内を反対に元気づけるのでした。
「無事に着いてくださいよ。そして落ち着いたら、早く家族みんなを迎えに着てください。三吉、父ちゃんをしっかり助けるんだよ。」
権右衛門さんの奥さんは、涙をこらえて、そう言うのが、精一杯でした。ほかの四家族も出発間近の浜辺で、悲しくても、無理に笑顔を作り、しばしの別れと自分に言い聞かせ、それぞれのつもる話をしているのでした。

 明けの七つ半時、十梃櫓の大船は静かに西浦の浜を離れて行きました。「元気でなー、達者でなー。」という多く人達の見送りの声は、やがて玄界灘の朝靄の中に吸い込まれるように小さくなっては消えていきました。
 十人は、懸命に櫓を漕ぎました。日暮れ前には島へ着かないと、遭難の恐れもあります。海の穏やかな内に少しでも距離をかせいでおきたいと考えたからです。艉(とも)で十人に合図を送る役目の権右衛門さんは、幼い頃から見慣れた蒙古山や妙見山をもうひと目見て、その目に焼き付けておきたいと思ったのですが、それすらもできません。ひたすら、舟の行く手・小呂島をめがけての北西へ北西へと目を皿のようにして見つめるのでした。お日様がのぼるにつれ、朝靄が霧へと変わっていきました。時間はどんどん流れていきます。島影はまだ見えません。急がなければなりません。

 腹もすきました。しかし休む事も考えず、みんなはひたすら十挺の櫓を漕ぎ続けました。途中漕ぎ手に疲れが見えたら、権右衛門さんが代わって漕ぎました。行方の定まらない十三里の霧の海を、みんなは力を合わせて黙々と漕いで行きました。幸いに昼を過ぎても凪は続きました。しかし、あまりの長時間の櫓こぎにどれだけの時が過ぎたのか、もう分からないほどでした。みんな体中の力を使い果たし、もうこれ以上は漕げないと思いはじめたその時でした。

「見えたぞー。」
先頭にいた三吉の声です。低くたれ込めた霧の海にぽっかりとすり鉢形をした緑の島山が行く手前方遠くに見えはじめました。
「小呂島だー、まちがいない!!」
「それー、もうひと漕ぎだ。やれー。」
権右衛門さんの後方からの励ましの声に
「おう!!」 
と声をそろえた十人は、櫓を持つ手に、残るあらんかぎりの力を込めました。五軒家当主達の太い指も分厚い掌もここまでの櫓漕ぎでその皮はボロボロに破れておりました。それぞれの息子達の中には手豆がつぶれたのでしょうか、掌には幾筋も血がにじんでおりました。

 いよいよ小呂島の南の岸まであと十数間となりました。
「さあ、もうひと漕ぎ、心してやれー。瀬(せ)があるかも知れんぞー。さあ、ゆっくりだー。あわてるなー。さあそこだー。もう少し。よーし、三吉、お前の草履(ぞうり)を投げろーっ、そいつが打ち寄せられる方をよーく見て、その後(あと)を一気に追いかけろー。」
権右衛門さんは、これまでになく、大きな声で三吉へ指図をしました。
「分かった。投げるぞー。それー。」
三吉は、片方の草履を脱ぐとそれをぽーんと島の岸近くに放り投げました。
 こうやって、漁師達は波の出(で)と入(いり)の具合を確かめて、絶好の船入り場を捜すのです。浜近くの海面にポツンと草履が浮かびました。それははじめ波間に見えたり隠れたりしながらゆらゆらとゆれていました。
 しばらくの間、十一人は目をこらして海面を漂う草履を見つめていました。やがてそれがピタリと止まったかと思うと、とある一点の浜辺に寄せる波と共に吸い込まれていきました。その時みんなは、すかさず「おーっ。」と歓声をあげました。と同時にあらん限りの力で櫓を漕ぎ、舟ごと追い波に押されるように目指す浜に乗り上げたのでした。ザ・ザーッ、ガガーッと大きな音を立て十梃櫓の船は小呂島へ無事に着く事ができました。
 私もその時、体中を堅く丸いたくさんの石にこすりつけられてかなり痛い思いをしました。私の体の先の方がボロボロに傷んでいるのは、その時のものです。
「やったーっ。」
「やったぞーっ。」
「着いたぞーっ。」
「俺達の島だーっ。」
 上陸した十一人の勇者達は、喜んでは涙したり、涙してはくしゃくしゃな笑顔を作り、いつまでもいつまでも感激の時にひたるのでした。気がつくと夏の日はすっかり壱州(壱岐島)近くへと傾きはじめておりました。もう八つ半を過ぎる頃でしょう。明けの七つ半に西浦を出たのですから、今で言えば約十時間ほど休まず櫓を漕いだことになります。くたくたになったみんなは、その夜は簡単な唐紙を体にひっかかけて、時々霧の間からのぞく夏の夜の星々を見上げながら浜辺にごろんと横になりました。その朝、西浦で別れた家族の顔を星影に重ねては、想い出し想い出し眠りにつきました。これまでに聞いた事のない新鮮な潮騒が、十一人の渡島一日目の子守唄でした。
 翌朝から数ヶ月の島造りについては皆さんのご想像にお任せします。住み家、畑作り、波戸づくり、神社(やしろ)づくり、水さがし(井戸掘り)、海の糧さがし、やる仕事はいっぱいです。しかし五軒家十一人のたくましさと団結力がどんな困難をも、ものともしませんでした。十一人の努力に福岡藩もいろいろと応えてくれました。そのおかげもあって、秋の風が立つ頃には、残された家族の、島への呼び寄せとまでなっていくのです。

 私の話は、これでおしまいです。
 十梃あった櫓も、今は私一人しか残っておりません。本当は独りぽっちで寂しいのですが、こんな私でも、島造りのお手伝いができた事を今も誇りに思っています。これからも時々は、私に気づいてくださいね。そして今日の話を思いだしてください。もしあなたに元気がない日や勇気がほしいと思う時があったら私をそっとさわってみてください。少しは、そんなあなたを元気づけることができるかもしれません。なにしろ、私の体の中には五軒家、つまりあなた達小呂小中学校十七人のご先祖様の島造り、島興(おこ)し、島の開拓の精神(こころ)が玄界灘の海の水と共に、今も深くたっぷりとしみ込んでいるのですからね。

                       ― おしまい ―
                               あ と が き

 この小篇は、小学部高学年及び中学部用の道徳教材(『郷土を知る・郷土の先人に学ぶ』)として書いたものである。そのストーリーの組み立てには、古文書『支子(くちなし)文庫』(九州大学中央図書館蔵)、『筑前國続風土記』(貝原益軒編)、『筑前國続風土記附録』(加藤純一著)、『筑前國続風土記拾遺』(青柳種信編)、『福岡県地理全誌』(明治初年刊)『糸島郡誌』、それに島に残る碑文および伝承を総合的に参考にさせていただいた。
 それによると第一回目の小呂島移住については五名とも十一名とも、諸説がある。五名の移住者についても、本文中の五軒家当主の五名が藩から呼び出され、それぞれの親族を移住者として選ぶように命じられたとする説もある。つまり確実な所は分からない。また、この物語の語り主である一本の櫓は、その形状からして明治期以降のものであろう。しかしこの物語を、あくまでも『道徳教材』として使うのであれば、少々の異論はあっても、このようなストーリーに組み立て変える事もあえて許されると思った。要は、島の子ども達に自分達の先祖の持っていたパワフルな開拓者精神を知り、その先達(せんだつ)の心をいつまでも忘れないでほしいと願ったつもりである。
 道徳性の伸長には、まずその基盤に感性の豊かさが求められる。この小篇に登場する五軒家の人々の人を優しく温かく思う心、そしていつの時代にあっても、精一杯の力を出し切って生き抜く人間のたくましさが、島の子の心の琴線に少しでも触れることができ、さらに健康な心と豊かな感性を育てる一助なれば私の喜びは大きい。
 最後に、今は青年となっているかつての島の子宝達へ贈った私のつたない詩『小呂の子ども達よ』を、再度島の子宝達へ贈り結びとしたい。