『小呂島と謝国明
 かつて、NHK大河ドラマで『北条時宗』が放映された。ドラマの中では北大路欣也演じる謝国明(右写真)が、日本(北条家)とモンゴル(クビライハーン)との国交のパイプ役の一人として登場。時宗の活躍にもからみ、ストーリーの一つの軸を成していた。
 その謝国明については、「生没年不詳。宋の帰化人。博多に住んだ貿易商人。綱首(ごうしゅ)と称された。海上交通の要衝にある筑前国小呂島の地頭。博多に承天寺を建立。」(『福岡県百科事典』)とあり、くわしく分からない部分も多い。ドラマの中では、随所に見られた時宗との出会いも時代を検証するとちょっと無理なようである。また、詳しくは分からないが、伝承としては、祇園山笠・年越しそば・博多鋏の生みの親としての人物伝承像がある。それほどに、謝国明が博多を基盤とする市井の貿易商人として多方面に活躍したことを物語っているともいえよう。
 では、商人としての謝国明が、小呂島を占有(建長4年宗像社の訴状によれば領有というよりも占有といった方がふさわしいと私は考える)する目的はどこにあったのだろう。それは中世における日宋間の自由(競争)貿易という観点から考えてみることで一つの解決の糸口が見えてくるようだ。
 中世における海外貿易は、後の鎖国時代と異なり、かなり大らかなものであったらしく、貴族をはじめ日本各地の社寺、豪族は競って宋よりの文物を購入した。それがやがて平氏の滅亡後は、博多の綱首(船頭兼商人)達は、実質的な支配権を得ていったようだ。表向きは寺社の寄人(よりうど)や地頭と称するが、その財力からすれば、時には主と従が入れかわることもあったと思われる。また当時の海難事故は今の比ではなく、季節によっては三艘に二艘は沈むほどだった。それだけに、成功すればひと航海で莫大な利益をもたらしたはずである。財はまた新たな財を生み、やがて綱首中の綱首とも言える大商人謝国明が誕生していったと考えてもいいだろう。その謝国明が貿易商人としての途次、目をつけたのが、玄界灘のど真ん中に浮かぶ交通の要衝としての小呂島であった。
 小呂島は漁業一色の島にふさわしく、今なお漁師言葉がたくさん残っている。
『こち』(東風)『あなじ』(北北東の風)『あおぎた』(北北西の風)『北ベーター』(北東の風)等、日常語として風向用語が頻繁に飛び交う島である。また、『正・二月の手の裏返し』(急な時化)等、島独特の気象に関する言い伝えが残っている。そのほとんどが風、それも北風に関わる言葉が多いが、これも冬から春にかけての玄界灘の航海の難しさを物語っているといえよう。それでも船団が玄界灘に出てしまった後『手の裏返し』が起こったら船頭は、どのような手段をとるのであろう。その時はまず何よりも、最寄りの島に避難するはずである。そんな時、壱岐や対馬の浦々、そして博多の中間地点にある小呂島は格好の風待ち港であった。(今でも急な時化の折、中国や韓国の漁船が数日間、島影に停泊する。)島が急峻な百メートルほどの屏風岩の地形をしており、風よけにはこの上ない場所だったことは、玄界灘を行き交う貿易商人の常識であったに違いない。謝国明はこの地を貿易の中継地というよりも地理的な理由からの権益(例えば入港税など)そのものを押さえたかったのではなかろうか。島の伝承に、「かつて長者屋敷なるものがあった。」とあるが、あるいは、この長者が謝国明ではなかろうかと、つい想像をふくらませてしまう。やがて中世の玄界灘貿易が衰退していくとともに、小呂島は歴史の中からひっそりとその姿を隠していくことになる。そして再び登場するのは、正保二年(1645年)5月5日、五軒屋の小呂島移住(第35話参照)を待たなければならない。
 
  謝国明をはじめ、玄界灘を行き交う中世の貿易商人達も、風待ちや緊急避難の折、眺めたであろう、小呂島東側に垂直に切り立った約100mの屏風岩