第三話 小呂島の地名(つづき)
ー 想像をふくらませて ー
                                (H17,7,13)
前回は『小呂島の位置と地名』についてお話いたしましたが、その地名について私なりに想像をふくらませてみましたので、ちょっと聞いて下さい。
一本松………ここは、その昔一本松が、にょっきりと立っていたのでしょう。それもかなり幹の太い背の高い松だと思います。松は潮風にも強いので、離島でも十分に育つはずです。いまはこの地に一本の松も見あたりませんが、もしかすると、大きな切り株などが見つかるかもしれません。このように特徴的な樹木を地名にする例は多いので、私はそのように想像しております。(福岡市に六本松などの地名もありますね。)
殿の山………島の人は少々ナマッてトノンヤマと呼んでいます。山というより丘ですが、ここに福岡の殿様(黒田といいます)が来たという資料はみあたりませんので、ここでいう殿(トノ)とは、島に常駐した侍(さむらい)の見はり所があった所ではなかろうかと思っております。1637年(寛永14年)島原に乱が起こりますが、乱がしずまると、各藩は、そろって外国船に対しての取り締まりを行いますが、福岡藩でも急きょ、国境(当時は、藩境)の監視をきびしく行うことになりました。その一環として、小呂島に武士を常駐させる必要があったのです。その時に派遣された武士を島の人々は、殿様と呼んだのではないでしょうか。トノンヤマは、島の北や西の水平線がどこまでもながめることが出来る絶景の位置です。
ヨシイ原………島には残念ながら芦(ヨシ)は生えておりません。潮風が強いからでしょうか。その代わりに、ダンチクといって、竹のような背の高い芦に似た植物は沢山生えております。(特にヨシイ原あたりには多いようです。)この地のダンチクを芦に見立てて、このように呼んだのではないでしょうか。
御手洗(おちょうず)………島は、何といっても水が命です。
江戸期以前では、水不足のためか、島民全員が餓死したという歴史さえ
残っている位です。したがって島民の、水を大切にする心や感謝の念は、
今もずっと続いております。20年位前までは、全家庭雨水が頼りでした。
さてその御手洗とよばれている地ですが、ここでは、雨上がりなどは、水
がチョロチョロとわき出る水口があるのです。この地名は多分日照りの時
など、水を求めて島人(しまびと)が来ていたのではないでしょうか。余談
ですが、第2次大戦、本島には、陸海軍150名位の兵隊さんが上陸してく
るのですが、兵舎は、この御手洗辺りに建てました。やはり水が何よりも
生活に必要なことを物語っています。
穴口………北の果ては、柱状節理の玄武岩にポッカリと穴が開いてお
ります。(ちょうど芥屋大門のように)だからここを穴口と言ったのでしょう。
昔々、大蛇がここから、ニョロニョロと入っていって鶏を食べたとか。だから
島ではその後、鶏がいなくなったとかいう伝説もあるほどです。昔々の文
献では、小呂島を大蛇(オロチ)島と書いたものもあります。大蛇といえば
、島根県地方にも伝わっている神話にも出てきますね。あるいは、ここ小
呂島も昔は、宗像の沖の島とともに宗像一族の支配にありましたので、そ
の地名は、神話時代の話までさかのぼるかもしれません。
水尺………この地には、今も長い長い尺が水中にブスリと差してあり
ます。どうやら海面の高さを測った物のようです。第二次大戦中、軍部が
この島を要塞化しようとしたときに、設置したもののようです。軍事的に水
深はとても大切だったかもしれません。今は、その長い物差しが水面に顔
を出し、玄界の荒波にチャポンチャポンと揺られているだけです。
貽貝(いがい)瀬………みなさんは貽貝という貝をごぞんじですか。
カラス貝を、どでかくしたものと思って下さい。あまり食べる機会はないの
ですが、島の漁師さんに尋ねると、この辺りには、貽貝が岩にくっついて
いて昔はよく取って食べていたとのことでした。スペイン料理などにもよく
似た貝が入っていますので、もしどんどん採れるのなら、島の特産物にし
て、博多に持っていって売り出したらどうかな?と勝手に想像しております
。ただし、この瀬は北風が吹くと大荒れで、危険な地でもあります。
越前………エチゼン、まるで福井県ですね。想像をうんとふくらませれば
、ここにその昔、越前からの西回り航路を来ていた回船が、難破して流れ
着いたのではないでしょうか。江戸期の海難事故は、今の比ではなく、幾
多の舟が、強風、荒波にのまれて、沈んでいったようです。島の船も他国
で沈んだ記録が残っております。玄界灘の荒波を(特に冬場)をながめて
おりますと、そんなことを想像してしまいました。(いずれ越前地方に出か
けて、そのような遭難事故があったかどうか古文献、古文書を調べて
みたいと思っております。)
ナヤバ………漢字に充てるなら『納屋場』でしょうか。となると、この
地は、漁師さんの住まいとは離れた作業場などがあったことが考えら
れます。江戸中期、島が鯨(くじら)漁を始めた時の納屋があった所
かもしれません。福岡藩も、松浦、大村両藩に負けじと鯨漁を応援す
るのですが、規模が小さかったからでしょうか、あまり成功しませんで
した。しかし、一時期にせよ捕鯨の基地や、獲ったあとの作業所が、
島のどこかにあったことは間違いありません。私は、その作業場跡だ
思っていますが・・・(江戸時代の島の古地図が行方不明になっている
のが残念です。)
三吉………多分人の名前でしょう。島の発展につくした人とか、ここで
事故にあった方を後の人が偲んで、このように人名を地名にしたのでしょ
う。このような例は、全国にあります。いずれにしても、皆から慕われてい
た人なのでしょう。島の古老に尋ねても『知らない』とのことでした
 ここに挙げた地名はもちろん島のほんの一部です。でも、地名というの
は、いずれにしろ、歴史の息に乗っかって出来てくるものですから、そのこ
とを調べることは、そのまま郷土の歴史の流れを調べることになります。み
なさんも自分の住んでいる校区や旅先などで、『おやっ』と思える地名が
あったら、どんどん調べてみてはいかがでしょう。
 ・その土地の人にイワレを尋ねる。
 ・昔の書物(古文書)を図書館で調べる。
 ・石碑などが建っていたら見逃さず記録にとり、読んでみる。
等々調べ方は様々です。たくさんの資料を集めて、その成立過程を一つ
一つ解きほぐしていくと、勉強の喜びも倍加しますよ
− 第三話 おわり −