『幻の朝鮮通信使』 
  壱岐水道を大船から小舟まで100艘を越す船団が行く。先導船から鳴りわたる銅鑼(ドラ)の音が、漁疲れで爆睡中の島の漁師たちをたたき起こしてしまった。女や子ども達は、一体何が起こったかと、上や下への大騒ぎ。西の沖行く船団をじっと目をこらして見つめるが、やっぱりこんなへんてこな行列は、かつて見たことがない。そこであわてて島一番の長老に聞いてみると、なんでも爺さまが、ずっとずっと昔の子どもの時分に、こんな景色を見たような覚えがあるという。その位の心許ない話だ。そんなこんなで200名足らずの島民は、ただただ右往左往するばかり。
  そんな時、また、また
  グワ〜ン ・ グワ〜ン ・・・・・・・・
  ド ド〜ン ・ ド ド〜ン ・・・・・・・・
  ジャラ〜ン ・ ジャラ〜ン ・・・・・・・・
と銅鑼や太鼓や金皿(今のシンバル)の耳をつんざくような音。おもわす耳をふさいだ子ども達は、そのまま七社神社へ駆け上がり、拝殿に身をひそめた。そして、みんなでひと塊となって体をワナワナと震わせていた。

  お〜い、お〜い、そげん驚かんでよかよ―。 そん人達は、なぁんも悪いことはせんとやけん。
隣の朝鮮国の人達やけん心配いらん。今、江戸の将軍様の所まで行きよるとたい。お宮に隠れとる子ども達、はよ出てこんね―。こげんことは滅多になかけん、よ―っと見とかんね。もうすぐ黒田の殿さんが交代の船ば仕立てて迎えに来らっしゃるけん。そしたら、まぁだまぁだ賑やかになるぞ―。一生一度の祭りたい。

 ピンヨロロ―ッ、ピンヨロロ―ッ。
 部屋でのせっかくのまどろみに、どうやら邪魔が入ったようで、かん高い声をひと筋残して、島の大トンビが、高台にある私の部屋の窓のすぐ横を青い大海原を背景に横切っていった。

 さて何の夢だったか?あっそうそう『朝鮮通信使』だった。
 通信使は、江戸期、計12回我が国を訪れている。秀吉時代のいまわしい出来事を払拭しようと徳川将軍家も朝鮮国との善隣外交に必死に努めようとするが、その一つのあらわれがこの通信使の接待であった。
 その一団の基本的なルートは、釜山・対馬・壱岐・筑前相島、その後は瀬戸内海の浦々へ。
 さて、その島々を直線で結ぶと、わが小呂島は、航路上にぴたりと位置している。したがって、通信使の一行は、必ずや小呂島を見ているはずだ。いや時には、風除けや凪待ちに島の岩影に船を寄せたこともあろう。そうなれば必ずや、一行の記録係(必ず随伴している)が日記に書き留めているはずだ。そこで、アレコレと随行日記を読んではみたが、一向にそれらしき部分は見あたらない。(島の萬年願祭りに使う『清道幡』や山笠の折の「ヨンジョイ」というかけ声、それに何よりも『オロ』という地名に、私はどこか朝鮮国のにおいがしてならないのだが・・・・・・)
「朝鮮国の通信使や〜い。うちの島のことを書くのを忘れとらんか〜い。」
玄界灘に向かって叫んでみても、声は波間に消えていくだけで、幻の通信使からは、何の返事もない。
 ピンヨロロ―ッ、ピンヨロロ―ッ。
島のトンビが、そしらぬ顔で、またまた、眼下を通り抜けていった。
    
 毎年8月18日に行われている島の『萬年願大祭』では、清道幡を先頭に若衆が笛や太鼓を演奏しながら島の路地路地を練り歩く。昭和40年代までは、これに島民歌舞伎もおこなわれ、それはそれは盛大な祭りであったという。
 どこか通信使の名残を留めているような気が(私には)するのだが・・・・・もっとも、この祭りのいわれ(・・・)については別の説もある。
(詳しくは、小呂島郷土詩『海祭』をご覧下さい。『海祭』のお問い合わせは、小呂小中学校へ。)