『遠望・沖ノ島』  
  古代史ファンなら誰もが一度は渡ってみたい、玄界灘の孤島中の孤島『沖ノ島』。小生も野次馬的古代史ファンの一人として、長年渡島の夢を持ち続けているが、未だに果たせていない(ほぼ全国の離島の旅を終えているのだが)。それは定期便(渡船)がないこともあるが、それよりも何よりも島が宗像大社(宗像市)の神域であり、部外者が勝手に上陸できないという厳しい約定があるからだ。しかし、それだけに沖ノ島には古代からの重要な祭祀遺跡が、長いこと手も付けられずに眠り続けてきたともいえる。今、それらが発掘調査されるにしたがって明らかにされてきたのだが、何よりも我々が驚いたのは、12万点にもおよぶという、時代を重ねてきた国宝級の品々が表出してきたことである。中にはササン朝ペルシャ時代のガラスの器も見つかっている。この島が『海の正倉院』と冠されるに至った所以である。
 さて、その沖ノ島。わが島・小呂島からほぼ真北約40kmに位置している(簡単な言い方をすれば小呂島は壱岐島の真東、沖ノ島は対馬の真東となる)。40kmといえば、小呂島行きの市営渡船が出ている姪浜港までとほぼ同距離である。つまりこの渡船で渡れば、わが島から約1時間で沖ノ島へ着くことになる。そのような位置だから、『海の正倉院』は、時々我々の眼前に出現する。特に冬場にはその姿を現す日が多くなる。渡る事の出来ない島だけに、そんな時、私は、うらやまし気にぼんやりとこの島を眺めている。大まかに両島を比較すると
  沖ノ島−周囲4km、面積0.69km、最高地点244m。
  小呂島−周囲3.4km、面積0.43km、最高地点109m
となる。したがって、この両島は、大体同サイズの島といえよう。違う所といえば、わずかに平地が、ここ小呂島にはあり、住民が定住することができた点であろうか。また全島神域とはならなかったことも定住が容易であったと考えられる。
 次に両島の共通点であるが、それは両島に祀られている神々がいずれも宗像三神、つまり田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)である。このことから両島が、中世(あるいは古代)に於いて、玄界灘全域を支配していたと考えられる宗像氏一族にとっての双子島という想像も成り立つ。
 また、小呂島の産土神『七社神社』の社殿の改築を寛文年間に行っているが、その折に「筑前国宗像郡・東郷村・建立」の棟札が見つかっている。これも本島が宗像氏(郡)との深い結びつきがあったことを物語っている。さらに時代を遡り、天正年間には、秀吉に追われ、宗像の大宮司が小呂島に逃れてきている。これらのことから考えても両島(沖ノ島、小呂島)は、宗像氏(宗像大社)と密接なつながりの中にあったことを暗示しているといえよう。
 それではなぜ、小呂島は、祭祀遺跡が極端に少ないのであろうか。それはやはり、大陸との交通の要路からややズレているということにあろう。古代人は瀬戸内、宗像と寄港して、つぎはいきなり、対馬そしてその次には大陸へ向かったのであろう。そうなると、海路の安全(風待ちも含め)祈願に必ずや立ち寄る島、それが沖ノ島であったと想像する。往路、帰路いずれにか、いやいずれにも宝物を寄進しては、祈り続けたのではなかろうか。(小呂島には、よほどの風に流されないと寄港することはなかったであろうと考える。)
 両島とも対馬暖流のおかげで、比較的暖かい気候の中にある点もよく似ている。ビロウ、ソテツ、フェニックス等が小呂島の南斜面には繁茂するが、これは、沖ノ島にも共通している(らしい)。かつて植物図鑑では、ビロウ樹の自生地北限はわが小呂島と書かれてきたが、その後、沖ノ島で発見され、その北限地も奪われて(?)しまった。
 冬の1日、沖合40kmの『海の正倉院・沖ノ島』を、わが小呂島からちょっと覗いてみませんか。古代ロマンに浸るひとときをあなたに提供できること請け合いです。

                                      ― おわり ―
学校裏からナットリへ行く道から見た沖ノ島 島の最北端ナットリから見える対馬
(撮影はいずれも本校中学部理科 今村浩一教諭)