『小呂島水事情』
 今、『小呂島史』(学校百周年誌・『海祭』より)をひもといてみると、「天正年間、宗像より移住者あるも、水・食糧の供給が続かず餓死。寛永20年、異国船、飲料水を求めて乗組員上陸。正保元年〜慶応元年まで何回となく飲料水を求めて異国人上陸するも、水無くほかの島へ。明治35年、共同井戸新設。昭和16年、陸海軍防備隊一個中隊駐屯。貯水施設設置(雨水ダム)。昭和31年、簡易水道施設できる。昭和45年、水道施設できる。昭和47年、新たに貯水施設設置。昭和48年、水不足のため漁船にて博多より水を運ぶ。昭和52年、漁船十八隻で水を運ぶ(250トン)。昭和54年、北九州市より水を運ぶ(200トン)。昭和55年、北九州市より水を運ぶ(320トン)。昭和59年、市水道局より水を運ぶ(220トン)。平成3年、海水淡水化装置新設。平成8年、雨水タンク整備及び新型ろ過器の設置により、給水能力が一日57トンとなる。」とある。まさに島の歴史は、水との戦いの連続であったことがしのばれる。
 戦国時代、小呂島は沖ノ島(本島より北へ約40km・海の正倉院ともいわれる古代祭祀の島)と一括して、宗像氏が確固たる支配権を持とうと、住民を移住させたようである。しかし年表にあるように、食糧難、水不足のため敢えなく全員餓死。強制移住させられた者(本間弥四郎とその一族)こそあわれである。
 江戸時代、異国人が水を求めて上陸した件は、まだまだ数多く記録されているが、ここでは、「正保元年〜慶応元年」と、まとめて書いた。鎖国中の日本だけに、立ち寄る港もなく、玄界灘に迷い込んだ異国船にとって給水地を求めることは、乗組員の死活問題であったろう。見ればどうやら無人島(正保2年より有人島となったのだが)らしい。よし、この島に上陸して飲み水を・・・・・と、異国人が考えるのも無理はない。しかし本島は、川もなければ、雨水のたまる池もない。あきらめて大島へ。そこで捕らえられて長崎送り。とこんな事件も起こっている。
 ようやく明治も終わり頃になり、本格的な井戸が掘られることとなる。各家庭の雨水タンクの水とこの井戸水の併用とで、島の水事情は一気に好転することとなる。しかし、昭和40年代半ば頃になると、井戸水もしょっぱさを増し、あまりおいしくはなかったとか。平地が乏しい島だけに、井戸も海岸近くに掘削したからであろう。
 やがて水道がしかれることになるのだが、貯水池(通称『ダム』と呼んでいる学校下のコンクリートタンク)も兵隊さんが残していった165トンの貯水量では、とても島民の生活はまかなえない。(いつも満水になるような大雨が続けばいいのだろうが)年表にあるように渇水ともなれば、本土から応援してもらうほかはない。何回となく漁船や、水を運ぶための専用船を要請しては、何とか島民の(文化的な?)生活を維持してきた。
 このような島の水事情を見るに見かねてだろうか?画期的な出来事が起こった。
 平成3年に設置された『海水淡水化装置』である。この装置は、実は平成元年に百道浜一帯を会場として行われた『アジア博覧会』(通称よかトピア)で使用された装置をお下がり(・・・・)(失礼)として頂いたものだ。島民の喜びはいかばかりであったろう。もう水の心配はいらないのだ。海水は島の周りに尽きることがないのだから。それに全然しょっぱくもない真水を飲めるのだから、井戸水の時代を長年過ごしてきた古老達の喜びはさらに大きかったに違いない。

雨水が土にしみ込まないように
コンクリートが塗られた


学校下の雨水ダム

 さて、このような水の歴史を歩んできた島であるが、本校の子ども達17名は、日々の生活の中に水の大切さをどれ位考えているのだろう。今では、蛇口をひねれば、家でも学校でも、溢れるように飲料水が出てくる。それが当たり前と思いはじめると、自然、水の一滴一滴がそれほで大切なものには見えてこないらしい(『節水』のステッカーは、蛇口の全箇所に貼っているのだが)。時々、水を粗末に扱って先生方から厳しい注意を受けている。昔とは反対に、福岡の街が水不足になっても、ここ小呂島ではその心配はないのだ。それだけに、今こそ我々も心してかからなければならないといえる。小呂島水事情は今後も姿を変えた形でまだまだ続いていくことだろう。

小呂島の浄水施設

ここで雨水と海水をそれぞれの
装置で濾過し、飲料水を作っている