『小呂島戦跡案内』
  第21話『誰かお心あたりは・・・・・』でもお話いたしましたとおり、先の大戦中、ここ小呂島は軍事要塞の島でした。詳しく言えば、島の約北半分がその地にあたり、したがって当然のことでありますが、島民は基本的には、島の一本道(軍道)にある峠(ハシルクラ)から先へは立ち入りが禁止されていました。ここには、歩哨の兵隊さんが常時2人で島民(民間人)が入ることのないよう見張っていたとのことです。そのハシルクラの峠を越すと、今は小呂小中学校が建っている陸軍の兵舎がありました。そしてその一段下(現在の雨水ダム辺り)に海軍の兵舎がありました。ちなみに、本島のこのような軍事施設が建ち始めたのは、昭和10年で、陸海軍の兵舎や軍事施設が整ったのは16年ということですから太平洋戦争へと突入していった事件と時期を一つにしていることが分かります。「風雲急をつげる」といった、あわただしい防備施設の建設だったのでしょう。陸軍約200名、海軍約60名が駐屯していたと聞いております。
 さて、そのような場所に現在の学校が昭和56年(1981年)に移転してきたのですが、学校の周りの軍事施設(遺跡)はそのまま草木の中に埋もれるように眠っているわけです。そこで今回は昭和の歴史的遺産ともいうべき、それらの軍事施設をご案内したいと思います。
@第1砲台(跡)
  15センチ砲がここに据え付けられ、玄界灘を通過する敵の潜水艦を想定して壱岐島の砲台とではさみ、射程距離に入れるようになっていた。実際には一発も撃たずに終戦となる。
  A第1弾薬庫入口
  @から約20m東。小山の形をしたうっそうとした森の中を入っていくと、弾薬と砲具倉庫がある。入口のカズラは巨大すぎて、島の由来でもある大蛇(オロチ)をも想わせる。
  B弾薬庫内部
  ぶ厚い壁で幾つもに区切られた部屋。その頑丈さが分かる。戦後貴重だった金属製の門扉などはなくなっているが、内部の構造は今もはっきりと分かる。
C水ため
  兵隊さん達にとって島での飲料水の確保は大変だったらしい。学校周辺には、いくつもの井戸が残っている。これはコンクリート製の水ため。
D防空壕の通風口
  学校体育館裏の斜面には幾つもの防空壕が残っており、これは、その壕の上に作られた通風口。
E海軍望楼入口
  島の一番高い地点(109m)の高岳山頂に位置する。ここから敵を監視していたとの事。まわりは草木でカムフラージュされている。
F望楼内部(1階)
  兵隊さん達の作業場(無線など?)かなり広い居住空間である。
G望楼内部(1階)
  兵隊さん達が使った便所。
H望楼内部(2階)
  いわゆる見張り所。周囲360度、眼下パノラマ状に広がる玄界灘をここから監視していた。
I第2弾薬庫入口
  学校の校門から東へ約50mに位置する。第1弾薬庫より、はるかに規模も大きい。
J第2弾薬庫内部(小弾薬庫)
  コンクリートもぶ厚いが、それをさらに補強するために、鉄ワクが壁から天井まで頑丈に組み込まれている。
K第2弾薬庫内部(大弾薬庫)
  広さ15坪ほどはあろうか、夏でもひんやりとしている。この部屋のうしろには、特別な通路が作られ、迂回して外に出ることができる。
L第2砲台(跡)
  長いこと、幻の砲台と我々はよんでいた。この度先生方で探検隊を組織し、この砲台を発見。周りは文字通りのジャングル地帯。手や足のあちこちにスリキズを作りながら、ようやくの発見だった。規模は、第1砲台とまったく同じ。