歴史No.2
中世・近世・明治期の小呂島
 私が初めて島に赴任した10年前のこと、あこがれてやってきたこの澄み渡る空と風の下、玄々(くろぐろ)
とした海に太古よりポツンと浮かぶ小呂島の歴史はどうだったのだろうと、私の中に潜んでいる探り虫が頭をも
たげてきました。そして、それまでに島に伝わっているいることを中心に、年表としてまとめられているのを知りま
したが、それは10項目(中世〜明治期)でした。私は、その少なさに驚くと同時に、玄界灘の交通の要所(と私は
思っている)『小呂島』が歴史の表舞台に出てきていないはずはないと強く思ったものでした。かくなる上は、文献
や古文書を自ら求めて、島の歴史を探してみよう、そして、新しい発見があれば、それを資料として、児童や生徒
の授業に直接使いたいものだと考えました。
 折りも折り、ちょうどそのころ小学校創立100周年・中学校創立50周年の話が持ち上がり、この式典で発行す
る記念誌に島の名所・旧跡案内とともに、島の歴史も入れようということになり、私がその担当になりました。その
思い立ちから約2年間、己の浅学非才さをも顧みず、素人調査と勉強法で古文書や文献探し、そして島の調査を
行ったものでした。その結果、新たに29項目を増やし全部で39項目として記念誌『海祭』の発行にこぎつけまし
た。平成10年10月のことでした。
 『海祭』発行の後も、更にこの作業は続けていきたいと思っていたのですが、私は博多の学校へと転勤。後ろ髪
を引かれる思い(実際には髪の毛はないのですが)で島を離れました。そして4年間、いつもいつも島のことが気
にかかり、折にふれては島に関する古文書を探し続けておりました。時間を見つけては、先輩方に教えを受けた
り、あちこちの図書館通いをしながら、少しずつ島にまつわる新たな歴史的事実を見つけては、項目を増やして
いったのが今回の結果です。
 今回は、新たに17の項目を加え、再び中間発表とさせていただきます。まだまだこれからも、島の歴史探究は
続けますので、あえて中間発表といわせていただきます。(全部で58項目になりましたので、この機会に明治期
までの分を全部を書き直すことにいたしました。この4年間で新たに発見し、書き加えたものが年表中の●で、前
回のものを一部分書き直したものが▲印です。)
小 呂 島 史(中世・近世・明治)
西暦 年号 主なことがら
1242 仁治3 この頃宋の商人謝国明、貿易の根拠地として小呂島を所有。
1253 建長5 小呂島が宗像氏の領地となる。
1471 文明3 李氏朝鮮国の外交官申叔舟の著した『海東諸国紀』に、小呂島が「於路島」として紹介
される。
1573 天正元 ▲宗像大宮司、豊臣秀吉に追われて本島に一時避難。(この時七社神社、初の勧請か?)
(〜1592) 宗像東郷村の本間弥四郎が移住(渡島定住した最初の人)。しかし、食料の供給が続か
ず餓死する。
1629 寛永6 『筑前の国風土記』に「於呂島村」が記される。
1640 寛永17 黒田藩が小呂島に番船を派遣し、異国船を取り締まる。(番所設置になる前、白島・沖の島
と共に)
1643 寛永20 ●国籍不明の異国船小呂島に繋留、飲料水を求めて乗組員上陸。藩はいそぎ小呂島に
番所を立てる。
1644 正保元 ●異国船小呂島に立ち寄り飲料水を求めて乗組員上陸。
1645 正保2 ▲黒田忠之、西浦の庄屋に本島開拓の移民を命じる。西浦の権右衛門家族ほか4家族
11人、開拓のため移住す。藩より免租の特権を与えられる。見張所と流人小屋を建て
定番(見張りのための武士・15日間で交代か?)を置く。
1649 慶安2 儒者・貝原益軒、流島される(在島9ヶ月?)。
1652 承応元 小呂島に異国船来訪。長崎に回す。
1655 明暦元 この頃までに、朝鮮通信使のため、烽火台設置。(場所不明)
1664 寛文4 ●古川新左衛門定番として来島。この頃より15日間交代でなくなり、長期滞在となる。
1666 寛文6 ●この頃、七社神社(台風にて?)倒壊、再建。(宗像郡東郷村建立の棟札見つかる。)
1672 寛文12 ●有田新兵衛、二男源八を連れ定番として来島。(後に三男伊佐衛門も)
1673 延宝元 小呂島に異国船来訪。長崎に回す。
1675 延宝3 ●嶽宮神社神殿改築
1679 延宝7 ●黒田藩小呂島に舟入場建設。
●藩主光之公、お鷹方を島に派遣、鷹の捕獲を命じる。
●新しく波戸、船入場を造り、七社・獄宮両神社も補修。
 七社宮拝殿新築。(戸波次兵衛、村上助兵衛奉行。石工須崎町長左衛門、棟梁次郎兵衛)
1680 延宝8 長崎県大村の深沢義太夫、小呂島で鯨捕りを始める。6年で中止。
1682 天和2 儒者・柴田風山、流島される(在島17年)。
●朝鮮通信使「小呂島沖で数艘の鯨船見る。」と記録
1683 天和3 ●定番・有田源八郎薬師堂再建。
1685 貞享2 ●7月、台風により、波戸・船入ことごとく壊れる。鯨漁も衰退。
1688 元禄元 小呂島に異国船来訪。長崎に回す。
1698 元禄11 ●有田新兵衛、定番を退く。(在島27年)
1699 元禄12 ●黒田藩より、山路仁佐衛門・星野万右衛門に島の図面作成を命じる。(絵師六之進・藤助)
1704 宝永元 ●この頃、郡代青木角右衛門、島の収穫物一切を島民のものとして認める旨通達。
1708 宝永5 黒田藩の重臣立花実山の弟・寧拙、流島される。在島7年
1711 正徳元 小呂島に異国船来訪。長崎に回す。
1717 享保2 ●この頃、小呂島の船数11艘すべて漁船とある。
1725 享保10 博多の熊本屋助次郎、岐志浦の正兵衛、藩命により捕鯨するも、一年で中止となる。
1745 延享2 小呂島、善吉(源六)・権次(治)郎、出漁中遭難、津屋崎の浜で発見さる。教安寺結縁。
1768 明和5 ▲藩の許可を得て、庄屋新吉と野北浦の七郎が共同で鯛網漁法を始める(鯛網の元祖)。
この網の使用法を伝えたのは、唐泊在の七右衛門という。
この頃黒田藩は、小呂島に大船が入港できる掘割港を構築する。(現在の浜の口あたり)
1772 明和9 ▲深沢儀平次(義太夫の子)、捕鯨を始めるが長くは続かず。鯛網についての許可願い
を再度浦々連盟にて提出。
1772 安永元 小呂島に異国船来訪。長崎に回す。
1785 天明5 ●嶽宮神社神殿改築
1792 寛政4 ●唐人町梅月武助、吉岡稲荷に陶製の祠を寄進
1798 寛政10 ▲小呂島沖で再び捕鯨が盛んとなる。西浦の伝五郎、捕鯨中に事故。
1812 文化9 この頃、小呂島浦庄屋新吉(66才)黒田藩42浦中2番目の高齢者となる。
ちなみに、当時の浦庄屋平均年齢39.4才(明石文書による)
1814 文化11 ▲11月4日小呂島に朝鮮国慶尚道河東を出帆した漁船(乗員2名)漂着
1824 文政7 藤田茂助(定番か?)、七社神社、嶽宮神社に石灯籠を寄進。
1828 文政11 黒田藩、小呂島に糧資買いの為銀一貫5百目を貸し付ける。
1831 天保2 小呂島浦、藩の水夫役(かこやく)を免除される。
(水夫役とは、長崎警備や参勤交代の折りの水夫)
1837 天保8 僧高覚、「無量寿仏」の碑を島の北端に建てる。(ナットリの丘に建つ)
1854 安政元 この頃、池田亀吉氏(初代校長)の祖父・清氏、鹿児島より来島。私塾を開く(?)。
1855 安政2 ●小呂島ナットリ沖を異国船頻繁に行き来する。
1860 万延元 大火あり、五戸を残しほとんどの家屋を焼失。この時貝原益軒の形見のかみしもを焼失。
1861 文久元 ▲勤王志士中村円太・藤四郎流島される(在島1年か)。
1864 元治元 勤王志士大神壱岐の守、流島される。
1865 慶応元 勤王志士浅野真平、浦志摩守、近藤喜八流島される。
●嶽宮神社神殿改築
1868 慶応4 異国船一艘小呂島に繋留。一行上陸(イギリス船か)。
1871 明治4 小呂島が志摩郡第15大区に編入される。
1872 明治5 小呂島戸数29。人口120。
1873 明治6 この頃、池田亀吉氏の父・新三郎氏、寺子屋を開く。
1876 明治9 小呂島が志摩郡第9大区7小区に編入される。
1884 明治17 小呂島が単独で村となる。(役場は宮浦に)
1889 明治23 小呂島が西浦村、玄界島と合併して小田村となる。
1896 明治29 小呂島の戸数28。人口144。
1902 明治35 ●共同井戸新設
1903 明治36 ●小呂島浦漁業協同組合設立。
1910 明治43 『共有野原記念碑』七社神社に建つ。
 このホームページを読んで下さった方々が、島の歴史を、より詳しく知ってもらうとともに、島の自
然の厳しさ、そしてその自然の厳しさにも負けぬ島人(しまびと)のたくましさそして対馬暖流と変わ
らぬ島人の温かさを、年表の行間から想像していただくことが、何よりも私の願うところです。
 今回の●印や▲印の項目の発見は、そのほとんどが、九州大学中央図書館に寄蔵された『支子
(くちなし)文庫』中の「覚」(おぼえ)によるものです。後半部分の欠損が惜しまれ、これを書いた人
や記録した年代が確定できないのは残念ですが、その内容からすると1700年代(宝永以降)と思
われます。この文書を求め、図書館通いをしながら、更に想像をふくらませるような興味深い発見
もあったのですが、それはまた後の機会に譲りたいと思います。最後になりましたが、古文書閲覧
について、快く応諾、そして細かい御配慮をいただいた中央図書館調査係長尾上五男様に、厚く
感謝申し上げます。
第6話 おわり