地域の歴史

「三筑」の地名
 戦後の学制改革で昭和22年新制中学校が、福岡市南部に隣接する筑紫郡にも開校しました。
新制中学校の第1回生は、現那珂小学校、板付小学校の校舎に仮住まいをして勉学に励みました。
 昭和23年5月、那珂町・春日町・日佐村の3ヶ町村組合立中学校が、現在の精華女子短期大学の
位置に九州飛行機青年学校跡を利用して開校されました。この時、学校名を筑紫郡の3町村の意味
から「三筑中学校」としました。
 三筑中学校は、生徒数の増加に伴い昭和35年に現在の三筑小学校に、さらに昭和54年に現在地
に移転しました。三筑小学校は、三筑中学校の旧校舎を改築して昭和55年に開校しました。
 昭和43年12月町名改正で、大字板付と大字麦野の一部が合併して三筑1・2丁目ができました。
 「三筑」の地名の起こりは、三筑中学校の校名に由来します。

「諸岡山」
 「諸岡山の杉木立ち 桜の庭へ続く坂♪♪」
 本校校歌の一節です。地図で捜してみても校区の中には「山」は見当たりません。「下の山」という地名
はあります。その東側に丘部があり諸岡八幡宮があります。八幡宮は戦の神で、武士が好んで建立しま
した。治水の考えから、川の氾濫から神社を守るため、小高い場所がよく選ばれました。この丘には神社
が2つあります。背後には杉木立ちと桜並木がありますので、校歌の作者がこの地を詠んだことは違いな
いでしょう。板付の埋蔵文化財センターによると、この地は「諸岡遺跡」と呼称し、弥生時代の甕棺や中世
の住居跡が出土しているそうです。
 貝原益軒の筑紫國続風土記には、岡の山八幡宮の記述があり、「諸岡山」と号したとあります。その他、
篠原(笹原)・南原・西原・横手原の地名が見えます。
 岡の山があったこの一帯は、諸岡村の諸岡原と言いました。この諸岡原では、足利尊氏軍と菊池・阿蘇
連合軍の戦がありました。1336年のことです。

「弥生の里」
 春日市の須玖岡本遺跡から板付遺跡を結ぶ線上を諸岡川が流れています。三筑小学校・三筑中学校
もここに位置します。その三筑中学校からは水田遺跡が出土しています。
 この流域には剣塚(前方後円墳・竹下アサヒビール工場内)、那珂八幡古墳(円墳・那珂1丁目)、日拝塚
(春日市伯玄町)、竹ヶ本遺跡(春日市弥生5丁目)もあります。須玖岡本の熊野神社から当時の支配者と
思われる墳墓が見つかりました。魏志倭人伝に出てくる漢委奴國があったのが、この地であったというの
が定説です。その南に現在「奴国の丘歴史公園」が作られており、当時をしのぶことができます。
 板付遺跡は環濠集落です。その一部が復元され、稲作体験型史跡となっています。毎年貫頭衣を身に
つけた板付北小学校の児童によって田植えや稲刈りが行われています。
 井相田には「埋蔵文化財センター」があります。収蔵品も多く、この地域の遺跡について学術的に研究を
したり、見学したりすることができます。
 諸岡川と那珂古川の流れるこの地で、板付遺跡と同じように弥生の人々は治水灌漑をして農耕に励ん
でいました。その営みは、この校区が都市化される30年位前まで延々と2000年近くも続いていたのです。
まさに校歌に歌われるように「弥生の文化 ねむる里♪」なのです。